第1話 分岐点

この物語は明治16年に出生した柳田という人物から始まった、今のエンパイヤ自動車を語った物語である。
物語は明治40年12月に柳田が東京へ単身上京したところから始まる。
当時田舎暮らしだった柳田はこのままだと一生田舎に埋もれてしまうと思い東京へ単身上京した。郷里をとび出し生活するために考えついたのは、缶詰めなどの行商であったが、既に妻を持っていた柳田はやっと一人が食べて行けるくらいでしかなかった。
それから中学校の代用教員などの道が拓かれたが、給金は知れたものであった。

明治44年、柳田が28歳になった時、銀座に電気商会を営み成功していた郷里の先輩を訪ねた。そして、そこで店員として働くことになった。これが柳田には人生を決める分岐点だったのかもしれない。
この時、店では事業をさらに発展させるべく外国雑誌を取り寄せて将来有望な商品を研究していた。まだ緒についたばかりの自動車がよいという事になり、明治45年に米国デトロイト市のエンパイヤ自動車会社にエンパイヤ号乗用車5台と貨物車のクローエルハート1台を注文した。
(※下図参照)

大正2年初春に待望のインボイスが到着すると店では柳田を自動車の主任にしたのである。しかも独立して事業を興すことをすすめたのである。
柳田は意を決して開業することにした。

大正2年4月10日に日本橋呉服町18番地に大きな看板を掲げて開業し、店の名前は車名にちなんで『エンパイヤ自動車商会』と命名したのである。
商売をするからには早く認められねばならないという考えがあり、イロハ順に掲載される当時の電話帳に『インパイヤ自動車商会』と登録したのであった。
(※下図参照)

開業して間もなくして、待望のエンパイヤ号の1台が買い上げられた。
ここから、柳田の自動車人生が始まった。

※上記第1号車販売にはこんな後日談がある。
買い上げた人は運転が出来なかったので、車に運転手をつけて売ったのだが、信州・諏訪への旅の途中に運転手が軽い事故を起こしてしまった。そこで、こんな危ないものには乗れないから車を引き取れと返されてしまったのである。この人はそれから死ぬまで自動車には乗らなかったという・・・。


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