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第5話 ガソリンサービスステーション

昭和7年8月、日本石油、小倉石油、三井石油、三菱石油、ライヂングサン石油、スタンダード石油の各社は協定によってガソリンの大幅値上げを発表した。1ガロン33銭から一挙に10銭あげて43銭にするというのもだった。

当時ビール1本27銭、米1升27銭の時代で、10銭の値上げはかなり大きいものであり、そのうえ出荷停止してでも、これを断行するという強い態度だった。
東京自動車業組合連合会が値上げ反対の先頭に立って、東京市の自動車には「貝印不買」のステッカーを張り、檄文、声明書を数度にわたって発表した。そして、10月15日午前1時を期して、乗合自動車を除いた関東一円の自動車5万台に一斉休車を指令した。
しかし一斉休車は、時の警視総監藤沼良平氏の調停で中止され、10月中には1ガロンにつき2銭を割り戻すという仲裁をのんで一応の解決をみた。これが第3次ガソリン争議といわれるものである。

この第3次ガソリン争議のことの始まりは昭和3年、ロンドンで開かれた英米石油業者による国際石油会議で産油制限が決定されたことである。
ガソリンは世界の自動車の普及とともに激しい販売合戦が繰り展げられ、世界的な石油価格の下落を招いていた。
国際石油会議の産油制限はそれに歯止めをかけようとするもので、この影響が国内においては昭和4年6月の6社協定という形で表れ、第1回ガソリン争議といわれた。


さて、第3次ガソリン争議最中の昭和7年8月、松方幸次郎氏はソビエト石油輸入の本契約締結のためソ連へ出発した。この訪ソを松方氏から直接打ち明けられていた柳田は、松方日ソ石油販売会社のガソリン販売を密かに計画、品川区のサンデン電気商会品川工場用地を入手し、昭和8年4月オアシスガソリンサービスステーションを開業した。
現在の株式会社ニューオアシスの前身である。

ソ連からの石油は予定より2ヶ月余り遅れて昭和8年8月6日輸入され、9月1日から売り出された。
予想された通り6社との間に激しい販売競争が始まり、第1船入港と同時に市価は1ガロン49銭から44銭に値下がりし、9月1日からは38銭、36銭、33銭、30銭と日を追って値下がりするとともに市場は大混乱した。松方日ソを中心とするガソリン市場の混乱はその後、約1カ年続いた。

エンパイヤ自動車商会のガソリンサービスはこの時始まったのではなく、大正10年呉服町に柳田ビルが完成したとき、東京市内で2番目のガソリンスタンドを作っている。
当時はガソリンスタンドがほとんどないので、自家用を持っている柿の木坂とか九段の家敷に、リヤカーや自転車に5ガロン缶(18L)2個積んで配達していた。坂の下に押し屋と呼ばれる立ちん坊がいて、1銭で坂の上まで後押ししてくれた。


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