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第8話 社名変更、そして統制時代へ・・・

昭和12年9月、輸出入品等臨時措置法に基づいて臨時輸出入許可規則が施行された。
これは日支事変に関連して、政府は物資の輸出入の統制、使用制限、配給統制、消費制限をするもので、外国自動車の輸入抑制、あるいは大衆車の配給統制が行われ、自動車産業は国家防衛の一翼を荷負う戦略産業の一部門として厳しい国家統制下におかれていった。

軍納車両のラジエターグリル前面に取り付けられた。
(左):陸軍車には星章。 / (右):海軍車には桜にいかり。

昭和14年4月1日、エンパイヤ自動車商会は、資本金100万円のエンパイヤ自動車株式会社に社名を改めた。

当時のエンパイヤ自動車商会は個人商店の域を出ていなかった。そこで会社組織に改めようとしたが、戦時統制下で、会社設立が難しかったので、資本金100万円の休眠会社を買収して商号を変更したのである。
また、太平洋戦争最中の昭和17年頃のこと、エンパイヤ自動車株式会社の『エンパイヤ』というのは敵国語だから、それを『帝国自動車』に改めるように当局から申し入れられたことがある。その頃はカタカナ文字の社名はほとんど漢字の和名に改称させられていた。
銀座の『ワシントン靴店』は敵国の大統領の名前を使っているということで、社長の名をとって『東条靴店』と呼んでいた。
エンパイヤ自動車も伝票から印鑑まで一切を帝国自動車株式会社に作りかえたが、遂に社名変更はしなかった。

昭和15年10月、鉄鋼、石炭、セメント、鉱産物、金属加工、自動車、車両、産業機械、精密機械、電気機器、機造船、貿易の12重要産業部門に対して統制令設立の第一次閣令指定が公布された。
当時、統制といえば、とにかく統制する側と統制される側の官民対立になりがちであったので、この統制令の組織づくりは指導者原理に基づいて設立委員が選ばれた。自動車統制会も昭和16年12月24日に設立発令した。

自動車統制会の目的は、自動車の製造と販売に関する総合的運営を図るとともに、これらに関連する政府の国策の立案、遂行に直接協力することにあった。その使命は強力な法的統制力と経済新体制要網の精神に添って、自動車工業を最も能率的に運営して優秀な自動車を多量に、安く生産するという事であった。

昭和16年12月、太平洋戦争旬日前の本社(呉服橋営業所)ここにある自動車は、おそらく輸入フォードの最後の軍納車だった。

自動車統制会の重要な役割として、自動車とその部品の、配給機構の整備と配給の適正化があった。これについては昭和17年6月15日、自動車および部品配給機構整備要網が商工省機械局長より通達され、日本自動車配給株式会社が設立された。
生産統制の範囲を全部品メーカーに拡大し、売渡し買受を制限してすべて日本自動車配給株式会社に一元化した。この結果、生産、配給のすべてにわたって、従来のようなアウトサイダーの存在が許されなくなり、同時に統制違反者に対する罰則も総動員法違反で相当重くなった。

昭和16年、自動車統制会が創設されるに当たって、エンパイヤ自動車は部品製造の道に進むべきかどうかという時、会社の方針として、メーカーを開発、育成をしてきたがやはり本来の仕事である販売に徹することにした。

一方、日支事変が起こった翌13年5月、ガソリンの販売に切符制が取り入れられ、消費規制が実施されたが、一躍浮かび上がってきたのが代燃自動車の開発気運である。自動車代燃化政策は国の安全を左右するものであり、政府の積極的な取り組みもあって、発生炉の有力メーカーが次々と設立された。

【燃研式木炭瓦期発生機】(代用燃料装置)の発売に当たって、構造、特長、取扱方法などを説明するマニュアル。


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