エンパイヤ自動車物語
全二十四話
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毎月更新してまいります。エンパイヤ自動車の歴史がこれでわかる!!



前回のあらすじ

昭和14年4月にエンパイヤ自動車商会は『エンパイヤ自動車株式会社』として新たな出発をした。
翌年の10月に12重要産業部門に対し、統制令設立の第一次閣令指定が公布され統制時代になっていった。
自動車統制会も昭和16年12月には設立発令し、目的は、自動車の製造と販売に関する総合的運営を図るとともに、これらに関連する政府の国策の立案、遂行に直接協力することにあった。
その使命は、強力な法的統制力と経済新体制要網の精神に添って、自動車工業を最も能率的に運営して優秀な自動車を多量に、安く生産するという事であった。


 

 本 編
 


昭和20年3月9日、エンパイヤ自動車株式会社の呉服橋ショールームでは、翌日の軍納部品検査をひかえ、ショールームには商品がいっぱいに並べてあった。
ところがその日の夜を境に、東京を含めてその周辺は全く変わり果ててしまったのである。

昭和16年から続いていた太平洋戦争の最中で、この日、米軍のB29爆撃機110機が飛来し、東京市街区域を中心に攻撃され、死者2万人、焼失家屋20万戸の被害をうけてしまった。
日本橋周辺ももちろん全部焼失しまい、戦争の大きな爪痕となってしまった。


<<<<人間の心理>>>>

東京大空襲の翌日、日本橋ビル前にあった電柱のテッペンが燃えていた。
この電柱はまるで、線香をともしたように3日3晩かかって根元の方まで燃え続けたという。
最後まで誰も消そうとしなかったのは、戦争という非常な状態におかれた人間の心理、平常時には考えられない不可解な働きをするのかもしれない。

この東京大空襲で従業員のほとんどはバラバラになってしまったが、被害をまぬがれた下請工場ではその後も部品生産を続けていた。日本橋のエンパイヤ本社では焼けた中でもニッケルナット、バルブガイドなど使えるものがあったので、それを仕分けして軍の検査を受けながら、昭和20年8月15日の終戦まで軍への納入を続けてた。

9月25日、柳田の方針で在籍していた全従業員に退職金を払ってひとまず会社の体制を整理し、再雇用する人は別個に辞令を出した。そして10月1日から戦後の新しいエンパイヤ自動車が発足した。

昭和20年8月15日に太平洋戦争が終結して間もなく、芝浦サービスステーションは警視庁から「関東地区のあちこちに点在している旧陸軍の高射砲陣地から自動車を引き揚げて整備するよう」指示があった。
終戦後これらの車両の管理は軍から警視庁に移されていたが、そのまま放置していたのでは盗まれてしまう為、引き揚げ作業をする事になったのである。
そこで警視庁の許しを得て、回収した部品を使って自動車を再生し、その車の販売をした。
こうして、現金をつくり部品を買い、トラックなど大量の自動車を再生した事が復興途次にあったエンパイヤ自動車の大きな財源になっていた。
9月25日にGHQ(連合軍 総司令部)は、我が国の極度に悪化した貨物輸送状況を解消するため、トラックの生産許可を出したが、資材が不足しているうえ、自動車会社は戦時中の生産体制の切り替えや老朽設備の補修もあって、生産は思うようにいかなかった。
そうなれば、当然の結果として、戦争中に使用されたトラックや焼けた自動車の補修、再生に頼らざるを得なかった。そうすると芝浦工場は日増しに忙しくなってきた。
修理に入ってくる車両は一部国産車もあったが、ほとんどが昭和16年の太平洋戦争が始まる前に輸入されたフォード、シボレーの車で、エンジンを解体してボーリングしなければならなかった。

その時、日本橋の本社ビルでは焼け跡のかたづけと復興をするかたわら、一階入口に雑貨小売部を始めていた。
あわただしくその年は暮れ、翌年になるとトラックやバスの部品を買いに来る修理屋も現れ、呉服町ショールームの焼けた中から使えそうな品物を選んで売っていた。しかし、それだけでは食べていくこともできないので、八丁堀方面の化粧品問屋から仕入れて、化粧品や雑誌類も扱うようになり、今でいうPOPを店先に掲げて宣伝などもしていた。戦争中、女性にとって縁のなかった商品だけに結構人気があった。

こうして昭和21年の4、5月ころにはエンパイヤ自動車が戦後、部品商社として再出発したのである。

部品の仕入は部品メーカーから仕入れるほかに、部品工場や軍の放出部品を仕入れていた。しかし、軍の放出物資はゆく先が見えていて、いつまでも続くものではなかったため、エンパイヤ自動車としては長期的に見て直接部品メーカーと手を結ぶことにより、優秀な製品を安定して確保する、という方針をたて、戦時中から結びつきの強かった部品メーカーを辿って仕入をしていた。
こうして部品メーカーを開発していくにつれて品物も順調に入荷するようになり、こうなると今度は買いに来る人を待っているよりも、積極的に商品を売りに出ることになった。
21年9月には、戦後初めて北海道へセールスに出かけた。北海道は本土とは違い、戦災を受けていなかったのでまず目につけた市場であった。

エンパイヤ自動車は戦前、東京地域のフォードスーパーディーラーとして、日本フォードとコンタクトがよく、相当な在庫機能を持っていた。このため台湾、樺太、朝鮮の外地をはじめ各府県別に展開しているフォードディーラーは、いちいち日本フォードにオーダーしていたのでは間に合わないため、みんなエンパイヤに注文が来た。このように急ぎの商品をすぐに間に合わせていたことから、全国の同業者には名前が知れわたっていた。
こういった関係が戦後になって、エンパイヤ自動車の販売網の展開につながり部品卸商社としての基礎が固まっていった。


 
次回予告
 

戦後の部品業界

 



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