エンパイヤ自動車物語
全二十四話
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毎月更新してまいります。エンパイヤ自動車の歴史がこれでわかる!!



前回のあらすじ

昭和24年からGHQ(連合軍総司令部)の仕事(特需納入)をさせてもらうようにり、はじめは、1人でこなしていた仕事も忙しくなり、昭和25年春すぎから本格的に3人で担当するようになっていた。
エンパイヤの特需納入は昭和33年ころまで続いて、この間の特需でエンパイヤ自動車の基盤は確固たるものになった。


 本 編


昭和23年に営業の基礎的な組織を作ってから、徐々に組織を拡充し、現在の原形が確立した。
営業部門は仕入部・販売第1部(国内市販)・販売第2部(特需と貿易)・地方部(地方業務と発送)、それぞれ担当していた。

これまで部品卸商は待っていても商売ができた、という一面もあったが、昭和24年ころになると地方によっては定期訪問をしなければ受注するのが難しくなってきた。

昭和25年ころ販売第1部(国内市販)は営業活動を関西まで拡大し、8人の営業部員が北海道から関西までを地域別に分担していた。営業部員は、月初めに本社を出ると汽車やバスを乗り継いで地方の部品商、ディーラー、あるいはバス会社、鉄道管理局を駆け回り毎月25日稼働中23日間は出張する程、忙しい時期を過ごした。


時おなじく、昭和25年6月に朝鮮戦争が勃発した。
しかし、この動乱は低迷を続けていた日本経済に大きな活力を与え、その後の発展の転機となった。
昭和24年から25年にかけて従業員の大量整理などによって企業の再建をはかっていた自動車各社にとって、この動乱はまさしく神風の到来であった。

朝鮮戦争

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)との戦争。
第二次世界大戦後、日本の植民地支配から解放されてソ連とアメリカ合衆国に分割占領されていた朝鮮では、1948年に北と南に別の政権ができて対立していた。北朝鮮軍が軍事境界線(三十八度線)を越えて南下し軍事行動を起こしたとして、1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。
第二次世界大戦で疲弊していた日本経済は、極東の国連軍用の資材調達による特需や、各国の軍備拡張機運を背景にした輸出景気で日本経済は生気を取り戻し、発展の転機となった。


自動車各社は外国メーカーとの提携、あるいは自社技術によって乗用車の国産化を始め、昭和20年代末期には各社が足並みをそろえて乗用車の生産に入った。
政府は昭和27年10月、新車の輸入をできるだけ少なくする国産化政策を打ち出し、日本の自動車工業を育成した。


<"国産車愛用運動"の一つ。トヨタの"国産トヨタに御愛乗を・・・"と呼びかけるチラシ>
一方、部品工業についても優良自動車部品認定制度に加えて、米軍特需を受注するための技術水準向上の自主努力によって徐々によくなっていた。

自動車メーカーが外国技術と提携したのと時を同じくして、部品メーカーは特にアメリカの部品メーカーと技術提携を積極的に推進した。

昭和31年には機械工業振興臨時措置法を公布し、自動車部品を特定機械工業として同法を適用、施設近代化資金の融資をおこなった。
一時期エンパイヤでも販売した。
昭和29年発売のホンダ・ジュノー

20年代後半から30年代末期までのおよそ10余年間における海外からの技術導入、技術供与は大変な件数にのぼり、わが国の自動車部品生産技術の開発、向上に大いに役立ったことは言うまでもない。日本の自動車部品メーカーの大手といわれるところは、何らかの形でアメリカあるいはヨーロッパの部品メーカーの技術を受けているだろう。
自動車メーカーと部品メーカーは自動車市場の拡大とともに同じようなカーブを描きながら発展した。

昭和30年代に入ると卸商社の部品供給はディーラーが主力で、地域部品商も大きなところは中間卸も兼ねてディーラーに部品を納める流通機能を果たしていた。
ディーラーは自動車メーカーがあったが、卸商社から補修部品の供給を受けなければ商売が回っていかない状態であった。そして、ディーラーの部品流通機能が確立したのは、40年代に入ってからである。

さて、昭和21年に14,921台から出発したわが国の自動車生産は、昭和29年には1,702,475台に達し、フランスを抜いて世界第4位の自動車生産国になった。
そして、昭和41年は2,060,000台の生産のうち乗用車は36%の740,000を占め『マイカー元年』といわれ、モータリゼーションは本番を迎えた。


40年代に入ると毎年毎年、前年対比2桁の伸びを見せ、部品メーカーも海外から受けた技術を日本人独得の方法で消化し、さらに日本人特有の技術をプラス、あるいはアイデアを入れて、小型車の生産技術を高めていった。部品メーカーだけではなく自動車メーカーとのタイアップで国産自動車は長足の進歩を遂げていった。
だが、昭和30年代前半の国産車は性能、品質、コストともに国際商品力はなく輸出が増勢に転じたのは40年代に入ってからである。このため、昭和30年から40年に入る前の補修部品関係は多忙を極める毎日であった。
つまり乗用車の生産は上昇していたが組み付け部品そのものの品質もそれほどいいものではなく、例えば足回りのトラブル、あるいはエンジントラブルなどの問題が多く、部品の取り替え需要も相当あった。さらに営業車両も稼働が激しく、そのうえ当時の道路は路面も悪かったので補修部品の大量供給が必要であった。

昭和30年度の部品生産
昭和32年5月1日、部工会「自動車部品工業の実態」による昭和30年度の自動車部品生産額は293億1700万円で、内訳は以下のようになっている。
部品メーカー 82.3%
自動車メーカー 10.3%
輸入 7.4%
出荷別では
新車 50.9%
補修 40.8%
輸入 8.3%

 


次回予告
 

自動車部品の流通



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