エンパイヤ自動車物語
全二十四話
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更新してまいります。エンパイヤ自動車の歴史がこれでわかる!!



前回のあらすじ
エンパイヤでは昭和26年4月に新規学卒者の定期採用を実施し、新入社員への教育に力を入れていた。また、新入社員のみならず主任から役員に対しても様々な研修に参加させ、資格を取得させていた。

 本 編

エンパイヤ自動車における福利厚生の推進母体は『エンパイヤ柳和会』である。“柳”は創業者柳田諒三の頭文字を取り“和”は創業精神の「動の和」によって『柳和会』としたものである。

戦後、復興がまだ緒につかない昭和22年3月31日、戦後の創立総会が開かれ、その年の10月11日、社員遠足会を開いている。その後、昭和29年5月、萬歳自動車株式会社の人事、庶務関係業務が同社の総務部に引き継がれるまではエンパイヤ、萬歳自動車の福利厚生は合体したものであった。
エンパイヤ自動車として『エンパイヤ柳和会』の規約ができたのは、昭和29年1月1日の改正時点からである。
会の事業・柳和会各部の内容は下記の通りで、基本的な事業は現在も変わっていない。
会の事業
(1).会員の福利厚生
(2).会員の生活向上
(3).会員の冠婚葬祭に対する贈与
(4).その他必要の事業
柳和会各部の内容
文化部
:華道、書道、詩吟、絵画
娯楽部:碁、将棋、マージャン、釣、映画、演劇
運動部:野球、卓球、庭球、バトミントン、ボーリング
会誌編集部

戦後、柳和会が発足して2年目の昭和24年4月15日【柳和会誌】第1号が創刊された。新芽がふき出した柳に松明をあしらった表紙はいかにも柳和会誌の陽春号らしいデザインであった。
編集後記の一部から発刊のいきさつなどを紹介しておく。

思えば、昭和14年春、45名の同志と語らい会社だけの文学誌の発行を計り、毎晩遅くまで残って、ガリ版で「やよい草」を発行したのが、そもそも発誌の発端であった。のち報国会誌と名も改め、ガリ版も活版刷りになり、写真まで添えて社員の親睦を大いに高揚したが、不幸、戦争のため、中絶になり今日に及んでいた。
終戦後、睦会の後身として柳和会が誕生し、次第に発展すると共に、全員の要望に答え年4回、季刊として続行する見通しで発表したのが、意外の反響を呼んで、10年振りに再び第1号を発刊することができた。

柳和会誌はその後『柳芽』と改題して発行が続けられた。


また、柳和会で特筆すべきは運動部の活躍であった。
戦後、昭和22年の柳和会の発足と同時に、卓球部、野球部には当社の伝統が引き継がれ、強豪ぶりを発揮していた。
ことに昭和23年春季における卓球部の活躍は、東京実業団卓球連盟に加入8勝4敗を記録し、その年の秋のリーグ戦では全勝記録を樹立、翌24年春季大会ではプロ級とされる第4部に昇格したのである。
一方、野球部も長い歴史を持ち、その球史に業界の3シーズン連続優勝の金字塔をうち樹てている。エンパイヤの野球部は『野球はまさに時代人の娯楽を兼ねた教化材』とする信念に基づいた人づくりのためにあった。
昭和25年、オールエンパイヤチームをEMC、BTC(萬歳自動車)に編成、それぞれ独立チームを発足させたが、総監督には三代目社長の岩波角平が当たっていた。当時のマネージャー土屋喜市は『過去において最も球歴の古い岩波監督は現在軟式野球界でもベテランで、単に監督としてだけではなく、プレーヤーとしても守っては水も漏らさぬ名一塁手、打っては良くクリーンアップマンとしての重責を果たし、攻守にチームの中心となり、若い選手をリードしています。』と柳和会報に記している。

 
試合 打数 安打 塁打 打点 盗塁 三振 打率
岩波
新井
菊池
水出
浅川
田村
土屋
国領
安田
伊藤
6 24 15 30 13 6 2 0.625
5 13 7 7 3 0 3 0.532
6 24 12 12 10 3 1 0.500
6 21 8 14 10 4 3 0.380
5 17 6 7 2 0 3 0.350
6 18 5 6 5 2 3 0.277
6 24 6 9 10 1 1 0.250
6 16 3 7 7 0 2 0.187
3 12 2 2 1 0 2 0.166
5 14 2 2 5 1 3 0.155
昭和25年9月15日発行の柳和会誌に紹介された当時のEMCチーム打撃10傑


昭和3年日本フォードとの対戦前に記念撮影

昭和42年東京都部品商組合大会で優勝(神宮球場にて)
昭和8年5月、3シーズン連続優勝

 

次回予告
 

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