トップページ > 会社案内 > Growth Story > ハイヤーから部品へ進出!
第2話 ハイヤーから部品へ進出!

大正2年開業して間もなく、待望のエンパイヤ号の1台目が売れた。
しかし、喜びもつかの間この1号車が軽い事故を 起こしてしまい、「こんな危ないものには乗れない」と返されてしまったのである。
何といっても開業早々のことであり、しかも当時は未だ自動車に対する認識も浅かったので、そんなに車が売れる筈がなかった。そこで柳田は ハイヤー を販売することにした。
しかし、自動車について何の知識も経験もなかった柳田は日比谷タクシーをやっていた先輩を訪ね、手を取ってあれこれ教えて貰ったのだが、開業当時、すでに上流階級の人たちの間では、ビュイックなどの高級車がゆき渡っておりハイヤーやタクシー業者に販売するにはあまりにも市場が小さかった。
しかし、柳田は車を販売する姿勢はあくまでも崩さなかった。

大正2年春、創業早々というのに「自動車もようやく一本立ちになろうとしているとき、同業組合が必要である」と自ら発起人の一人に名を連ね、東京自動車業組合の結成に奔走した。
同年7月東京府知事の許可があり、まず自動車税の軽減運動をはじめたのである。

大正10年11月の区議会議員選挙に立候補した柳田は難なく一級議員として日本橋区議会議員になり更に翌大正11年11月には東京市議会議員の選挙にも立候補し、議員最年少の39歳で当選した。
そして、懸案の自動車税軽減を一日も早く実現させるべく動いた。
大正12年度の自動車税に対しては原案は本税の100分の15減であったが、柳田の運動の結果、前年度より本税100分の30を軽減させることに成功し、東京府税の方も2割減額が府会で決定した。これにより柳田の執念がここに成就したのである。

時はもどり、大正3年7月、オーストリアの皇太子がセルビアの一青年に暗殺された事件をきっかけとして36カ国を巻きこむ第一次世界大戦が勃発した。この大戦の影響で、大正4年に入るとわが国の貿易収支は空前の輸出超過となった。
当然この影響は柳田の事業にも及び、開業間もないエンパイヤ自動車商会のハイヤー部は日ましに 業績をあげていった。

呉服町(現在の東京駅周辺)という地を探し当て、そこに店をかまえた。
当時、赤坂を中心に自動車会社が多かったことから、この付近を俗に自動車街と呼んでいたが、一人エンパイヤ自動車商会だけは全く異質の場所にあって、ハイヤーは非常に珍しがられた。

このころすでにハイヤー部のほかに用品部があって、用品部の定員は昼の仕事を終えると夕方6時ころからハイヤー部の応援に回るほどの忙しさだったが、大正7年11月、第一次世界大戦が終わり、暮れには早くも休戦にともなう反動不況が始まった。全盛期を満喫したハイヤー業界の雲ゆきも怪しくなり大正9、10年ころになるとハイヤー業界の間で顧客の奪い合いをするという誘致競争にまで発展した。
具体的には料金の一部割戻しや、歳末、中元の贈り物をして一人でも多くの客を取ろうとした。この競争は止まるところを知らないほどに発展し、たまりかねた東京自動車業組合は、過剰サービス行為の禁止を議決した。

大正10年に日本橋区呉服町の地に地上4階建ての柳田ビルが完成した。日本橋区かいわいにはまだビルらしい建物はなく、このビルの屋上からは上野公園、浅草公園、品川の海までを眺望することができたという。

この柳田ビルの完成を契機にエンパイヤ自動車商会は思いを新たに次の時代を切り拓いていくのである。

エンパイヤ自動車商会が自動車補修部品分野に進出したのは上島(後のエンパイヤ自動車株式会社社長)が入社した大正4年である。
当時ようやく高まりつつあった補修用部品類の需要に目をつけた柳田は、この分野を担当させるため上島を入社させた。
上島が入社したころは、自動車用電球や一般の電気部品、電気用品を販売する一方、ガソリン販売も手がけて、その後、フォード車の部品販売やアメリカから輸入した機械工具、タイヤなども販売した。その販売先は東京市内全域はもちろん、関東一円から信越、北陸、東北に及び、さらに北海道まで手を伸ばし、次第にエンパイヤの知名度を高めていった。
そして、多くの地方有力店との取り引きで厚い信用を得ていった。

補修用部品分野に進出して間もないころRY電球という自動車用ランプを製造発売した。
これは柳田が考えたところから、その頭文字を取ってRYと名付けたものである。当時の自動車はまだ性能が悪く、特に電気系統に問題があったため、電球はとぶように売れた。その後エンパイヤ自動車商会が販売する自動車用電球はすべてRYの名前がつけられ、昭和初年まで 販売が続いた。

この間、大正7年3月、軍用自動車補助法が制定されているが、この法律は、わが国の国産自動車及び自動車用部品の国産化を促進させることを目的とした。さらに軍用に適する自動車を製造する業者には製造補助金を交付し、また軍用に適する自動車を所有するものに対しては購買補助金及び維持補助金を交付した。

自動車の急速な発展は間違いないと見た柳田は創業当初の執念を実現すべく自動車販売の再開を計画し、大正12年4月、セールフレーザーとの間にフォード自動車の販売契約を締結し、ようやくフォード車販売の第一歩を踏み出したのである。


このページのトップへ