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第13話 自動車部品の流通

欧州車との技術提携、あるいは自社技術などによって生産が始まった国産乗用車。
市場に出はじめた昭和30年代初めまではまだ車齢の長い保有車が依然として多く、シリンダーを容接して使うとか、クランクシャフトに肉盛りして再生するなど、部品を全国的に供給しなければならない時代であった。
その需要にこたえるためには、カバン1つ持って定期訪問していたのでは間に合わなかった。また当時は輸送事情が悪く、本社が電話注文を受けても、相手に商品が届くまで3日も4日もかかっていた。
自動車の所有者にとって少々高くても、必要な部品は今日すぐにでも欲しいのが心理である。それを満たすにはユーザーの身近に商品を揃えておくことになる。

昭和28年、エンパイヤ自動車全国展開第1号となる、名古屋と札幌に駐在所を開設し、昭和32年にはそれぞれ営業所に改めた。この頃から全国の営業拠点展開は、単なる部品の供給から、『即時供給体制と品揃え』の前線基地という考えに変わってきた。これは国産乗用車の普及に対処して、補修部品市場をいち早く固めることが、新しい自動車時代を生き抜く道であると見通した、経営陣の賢明な戦略であった。

全国の拠点展開と同時に在庫機能と配送機能を兼ね備えた部品センターを整備し、供給のスピードアップを図った。
昭和33年、現在の本社所在地に八丁堀倉庫を完成したのが、当社最初の部品センターである。その後、需要の拡大に伴ってセンターの増設をしていった。 

優良自動車部品に認定されたすべての部品メーカーの製品は我々卸商社の流通経路を通じて全国の部品商、ディーラーに流れていた。しかし、昭和30年代から国産乗用車の生産が拡大するにつれて、自動車メーカーがそれぞれのモデルに合った部品を設計して部品メーカーに発注するようになってきた。
自動車メーカーは、優良自動車部品認定の製造メーカー、あるいは工場を自社の系列部品メーカーとして流通組織を作っていった。
結果、部品メーカーは優良自動車部品の品質確保をするというよりも、自動車メーカーの意向に添った品質、規格に合わすことを第一に考えなければならなくなり、自動車メーカー寄りにならざるを得なかった。このため、優良自動車部品認定は日本の有力部品メーカーがほとんど網羅され、認定された部品あるいはメーカーの大半は、自動車メーカーの組み付け及びサービス部品納入業者になっている。

補修部品の性格と流通機構上の分類

A種 組付部品メーカーの製品であって、自動車メーカールートを通じて販売される部品
B種 A種部品と全く同じの組付部品メーカーの製品であって、卸商ルートを通じて販売される部品
C種 組付部品メーカーの製品であるが、A種部品と異なり、部品メーカーが卸商ルートの販売用に設計し、製造して卸商ルートを通じて販売している部品
D種 組付部品を生産していない部品メーカー、すなわち補修部品専門メーカーの製品であって、卸商ルートを通じて販売される部品

通産省の産業構造審議会重工業部会自動車部品流通委員会による分類(昭和40年8月23日)

ただ、自動車メーカーの組み付け及びサービス部品納入をしている部品メーカー以外は製品品質、技術開発力が劣っていた訳ではない。どうしても自動車メーカーの量産体制にこたえ得るものがなかったとか、会社の方針として、自動車メーカーの考え方や量産体制についていくのは、リスクも多いから従属しなかったという理由であった。
また1つは、自動車メーカーへの納入は少品種大量生産で経営効率は高いが、納入価格が毎年のようにたたかれるとか、製品の規格についてもうるさく言われ、クレームも出てくるといったような様々な制約があった。
しかし、市販メーカーは多品種少量生産で、例えばエレメント1つにしても各種の車種用を作らなければならない。それだけに生産コスト面は非常に難しい反面、逆に少数精鋭で規模もあまり大きくしなければ固定費もかからないから製品コストには、そうはね返ってこない。このように、自動車メーカーに従属しなかった部品メーカーのメリットもあるといえる。

自動車メーカーの補修部品が10円だとすれば、市販優良部品は5円か6円で、部品メーカー、卸商、小売商ともに高い利益率を得ることができた。最近は自動車メーカーも価格は下がっているが、これだけでは部品商としては難しい。
地方の部品商は、自動車メーカーの純正部品も持っていなければ、整備工場から注文がきたとき商売上かっこがつかないから扱っていたが、実際に利益率の高い優良部品を扱わなければ商売が成り立たないのが現状であった。


純正部品という言葉をつかったが、昭和40年代当初までは、純正、優良といった区別はなく、すべて優良自動車部品と呼ばれていた。
例えば純正部品でも部販、共販から地域の指定部品商を通さないで、ストレートにユーザーである整備工場とか大口ユーザーと結んだ方が良いという考え方もある。
現実に卸商無用論もあるが、しかし、当時4千万台時代の車を補完して補修部品を出すという現実を考えた場合、純正部品だけでは流通面からみてもとてもできない話である。
型式の古い車も沢山あるのだから、そういうものの供給体制は、やっぱり純正よりも卸商の方が確立している。一番の問題はアベラビリティー(Avail-ability=便利性)で、言われたものがすぐに品揃えできるかどうかという事である。

昭和48年の石油ショックで、省資源・省エネルギー時代に入り、自動車メーカーも省資源・省エネルギーの車を生産するようになってくる。車を使う方もガソリンや経費が高くなって走行距離も短くなってきた。部品の需要はさらに落ち込んできた時代である。
エンパイヤ自動車では、用品関係の営業部門を作ったり、社内に用品の常設展示場を作ったり、営業所を作ったりして昭和50年以降相当力を入れてきた。
景気の悪いときに積極施策を打つことはチャンスである。カー用品の新しい流通チャンネルを量販店、DIYに開いたという事は卸商として画期的なことだといえる。

エンパイヤ本社3階に常設されていた展示場


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