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第3話 関東大震災と自動車の発展

フォード自動車の販売を始めて間もない大正12年9月1日、東京、神奈川、千葉、埼玉、山梨 にわたって関東地方一帯に大災害をもたらした、関東大震災が起き、この大震災によって3昼夜にわたって火が燃え広がり、市内を焼野原に変えてしまった。
もちろんエンパイヤ自動車商会にも被害が及び、大正10年に完成したばかりの柳田ビルが被災してしまった。しかし幸いのことに芝浦の修理工場が災害の難をまぬがれたため、ここを本拠に関東一円の被災地からの引き合いに全社員が不眠不休で応じながら復興につとめた。

関東大震災はその当時の最大の輸送機関である鉄道や市電を一挙に破壊してしまったのである。
焼失した市電は779両、軌道破損16.25キロメートル、そして市内の自動車は合計458台の被害を受けた。もちろん救援の食糧配給にもこと欠く状態にあった。しかしこの大震災のもたらした最大のものは自動車の著しい普及と国産部品製造気運の高まりであった。
貨物の集配と震災の後始末から復興にいたるまで全てトラックに頼るほかがなかった。
こうした自動車の活動を通じて、その実用性が広く一般に認識されるとともに、その後すばらしい発展を続けるのである。
その頃の業界は、自動車も部品も付属品もすべて輸入しなければならないというのが実体であったが、震災後の車両の増加で輸入部品が極度に不足したことが国産部品の必要性を一般に認識させることになった。

大正12年12月、柳田は関東大震災で東京市に寄せられたアメリカ各市からの好意に対する答礼のため東京市の代表として渡米した。

このときサンフランシスコに在住していた人物(後のエンパイヤ自動車会長)を通訳に雇ってフォード社を訪れた。その春、販売契約したフォード代理店のセールフレーザとの取り引きがもう一つうまくいかないので、フォード自動車の部品等を直輸入すべく同社の幹部と商談した。結果、フォード本社では日本市場の将来性、日本を拠点とした東南アジア市場をねらって近々日本フォードを設立するとの情報を得て、早速帰国した柳田はフォードの代理店権を得るために準備を進めた。

そのころ部品部では、セールフレーザから仕入れた部品のほかゼネラルモータース系の部品やアメリカ製の機械工具も扱っていた為、このフォード以外の商品を分離しなければフォードの代理店になることは難しかった。そこで目をつけたのが、柳田ビルと道路一つへだてた日本橋通塩町の萬歳貿易商会だった。自動車のオイルや工具を輸入していたが、営業の方はもう一つということだった。この会社の社員もろとも権利を譲り受け、大正14年の初めにエンパイヤ自動車商会が扱っていた機械工具など、フォード製品以外の部品等一切を扱わせるようになった。これが株式会社バンザイの始まりである。

一方、東京市電気局では、市電の全面的な早期復旧は容易でないとしてバスの経営を計画した。
米国フォードからT型トラックシャシーを緊急輸入として、大正13年1月には横浜に陸揚げされた。
トラックシャシーは東京市内の主な自動車販売会社にまかされバスボデーが架装された。
この作業にはエンパイヤ自動車商会も協力した。

当時はバスボデー製造会社というものはなく、馬車屋にバスのボデーを作らせた。木製幌張りの粗末なもので、明治時代市内を走っていた乗合馬車を連想させたことから、この市バスは円太郎バスと呼ばれた。往時落語家円太郎が、高座でラッパを吹きながら乗合馬車の真似をしたのがこの名前の始まりともいわれている。

震災の翌年、大正13年9月15日、フォード本社の調査員らが横浜に着いた。横浜から東京に向かう彼等の目を奪ったのは、おびただしい自動車の往来とたくましい復興ぶりであった。災禍に打ちひしがられてから1年、東京はまだ焼野原であろうという彼等の予想を裏切った。更に彼等を驚かせたことは、フォード会社の工場設置に対して日本の有力財界人が双手をあげて歓迎していることであった。

こうして同年の12月資本金4百万円の日本フォード株式会社が設立された。
そして、改めて全国的な販売組織を確立することになり、フォードディーラーの募集条件が出された。
(一)市場に応じて応分のストックを常置し得ること。
(二)所定の陳列場、サービス工場を有すること。
(三)所定の数量を販売し得る能力を有すること。
この3点で無保証特約契約、資格なしというもので あった。つまりディーラーは常に定められた車輌台数を前払いで日本フォードから買い取って置かなければならず、相当な資金を必要とした。

大正14年3月、エンパイヤ自動車商会はフォードの東京地区における販売代理権を確立、ここに名実ともにフォードディーラーとしてスタートを切ったのである。
エンパイヤ自動車商会にとって焦眉の急は、(二)の条件である『自動車を売ることはサービスを売ることである』という事であった。その為には売った車に対する責任を持つサービス工場と、その車のサービス用純正部品を多量に常備しなければならなかった。そしてもう一つは陳列場の完備である。
震災復興のかなり進んだ大正15年、日本橋の柳田ビルのすぐそばの建物を借りることにした。この新店舗には自動車部と用品部(当時は部品を用品と呼称した)が入り、本店の柳田ビルは1階をハイヤー部が使い、3階半分と4階は独身男子従業員の寮とした。2階、3階半分はテナントが入居した。

エンパイヤ自動車商会がフォードディーラーとして販売権を与えられた車種は、フォード乗用車、同トラック、フォードソントラクター、それにリンカーンであった。そして、ディーラーの経営についてはすべてフォード式管理が採用され、セールスマン、あるいはセールスマネージャーという呼び方もこのころから使われだした。
一方販売の実務面はディーラーに主導権が与えられていたため、知恵を絞り合って当時としては奇抜な宣伝活動を行った。
大正13、14年といえば、昭和大恐慌の前ぶれとして、中小企業の倒産、企業合併、インフレなど不況が慢性化していたころである。そんな中にあって、自動車販売業は時代の先端をいく花形産業であった。


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