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第21話 経営者 上島三男人

エンパイヤ自動車は、初代経営者の柳田が大正2年4月10日に『エンパイヤ自動車商会』として開業し、現在に至っている。
初代経営者柳田については当GrowthStoryの第1話~第3話で述べている。上島三男人は、昭和32年11月に二代目社長に就任した。

二代目社長上島は、『企業は人にあり』を深く理解し、その事に本当に徹しきった数少ない一人であろう。折にふれいっていた言葉は「我々は企業と共に栄えていくのである。君たちが一生懸命働けば、株主である君たちが報酬として得ることができるのであって、企業と共に豊かさを追求しろ」ということであった。会社は社員があって存在する。だから社員を優遇しなければならないということである。
さらに、例えば400人の社員がいれば、その社員の後には家族がいて1,400人なり1,500人になる。そういう人たちの生活を私が見なければならないわけだから、この企業を永久不滅のものにして我々は栄えさせていかなければならない。そういう責任がある。ということを常に言って体でも示していた。

上島は、大正4年3月に長野県南安曇郡高家村から上京し同年7月、エンパイヤ自動車商会に入った。
仕事のかたわら日本橋城東夜学補修学校に通い、大正6年11月卒業したが、人格形成の思春期に柳田から厳しく躾けられ、ある意味では両親以上の慈愛を身にしみて感受したのではないだろうか。
そして、長年にわたって自分を叩きあげてきた努力の集積が、そのまま自分の思想となり、ストレートに社員教育の方針となっていた。従って社員に対して、こうやれと言ったことは必ずやり遂げさせた。
社員に厳しいだけでなく、自分に対しても非常に厳しく、また公私の別は明確であった。ことの善悪は商売上といえども絶対曲げることがなく、それだけに外に対して媚諂う(こびへつらう)ことは全くできなかった人である。内にも外にも飾り気がなく、業界から「野人上島」の異名を受けるほどであった。

こう述べてくるといかにも頑固一徹のように思えるが、その反面、社内にあっては好好爺のように社員から慕われ尊敬され、また喜怒哀楽を本当に現わす人であった。

柳田に育てられてきた歴史に加味されて、その長い経験から得た「企業は人にある」という思想が上島を好好爺に育てあげたという一端をうかがうことができる。そして、上島が柳田を絶対信頼していたように、社員も上島の言動を信じて、昔の修身教育を忠実に守り通すように、まさに股肱(ここう)の部下として命を賭して働いた。これはエンパイヤ自動車の歴史の流れの中で培われ、現在まで連綿と受け継がれている。それは、当社の社員は全て生え抜きで、他の企業の色に染まった人がいない。いわば生まれながらにしてエンパイヤの忠実な社員として育てられたことに起因している。

上島は太平洋戦争中の一時期から昭和25年8月、専務に復帰するまで関連会社に出向しているが、この間を除いては一貫して部品畑を歩んできた。昭和26年3月、会社代表者にはなったが、昭和32年11月に社長に就任するまでは専務であった。
上島は一本気の人だったが、それをうまく助けたのが、当時の営業責任者であった新井であり、メーカー担当の岩波であり、セールスマネージャーの滝沢であった。新井はもみ手して頭を下げてお客に当るタイプの人で、商売上にそつがなかった。上島は社員それぞれの持ち味を生かすことも才たけていただけに、股肱の部下を多く持つことができたともいえよう。

昭和36年4月28日 オースラトリア、ニュージーランドへ自動車市場査察へ(写真左から2人目 上島三男人)

エンパイヤ自動車が戦後部品商専門業として歩むということは、とりもなおさずメーカー対策であった。部品メーカーがエンパイヤにエージェントを渡したのは、全国津々浦々までまんべんなく商品を浸透させてくれると考えたからである。その問屋機能を備えることが、即ち問屋の義務を果たすことである。
では、問屋機能を満足させるためには何をなすべきか。それは営業拠点、いわゆるデポ展開であった。かつては東北、北海道だけであったものが日本列島全域に広がり、さらには海外にも展開した。それと相まって、モータリゼーションの発展に合わせて波長の高い波をうまく捉えながら、年率20数%という伸び率を示してきた。

このように時流に乗ったということは、社会・経済環境の激しく変化する中で、あらゆる要素を組み合わせる経営感覚が上島にはあったからである。大局的な立場から方向を打ち出す洞察力と実行力が高く評価されるゆえんである。

一方、上島は強い責任感と優れた指導力によって業界発展に尽くし、昭和49年4月29日、勲四等端宝賞を受賞し、同年6月26日、東京九段のホテルグランドパレスで業界代表者約300人を招いて盛大な披露式典をおこなった。なお、部品業界人として勲四等を受賞したのは上島がはじめてである。ちなみに公職団体歴は次の通りである。

■日本自動車部品協会--------副理事長・理事長
■日本自動車部品輸出協会------理事
■輸入自動車部品協会--------会長
■日本自動車部品組合連合会-----理事・副理事長・理事長
■東京都自動車部品組合-------理事・副理事長・理事長
■東京都自動車整備振興会------監事、副会長
■自動車振興会厚生年金基金-----理事長
■東京都総合厚生年金基金連絡会---常任理事
■全国総合厚生年金基金協議会----理事
■東京都厚生年金受給者友の会----代議員
■自動車振興会年金福祉協会-----会長
■中央交通安全協会---------常任理事
■日本橋通法人会----------理事


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