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第22話 岩波角平の経営感覚

『企業は人にあり』とする経営哲学は企業風土として定着し、この精神を受け継いでいるのが岩波角平であった。
岩波角平は昭和3年4月にエンパイヤ自動車商会入店以来、営々として築きあげてきた自分の過去から、働くものの立場を十分すぎる程よく理解していた。従って社員に対してはできる限り尽くしてやらなければならない。その代わりみんな一生懸命に仕事に精励しようじゃないか。努力をして得た利益はみんなに還元する。そういう岩波の考えが社員一人一人に伝わっているところに、企業成長の秘密がある。
昇給にしろ賞与にしろ、一般的な企業は社員の方から沢山出してくれというのが普通であるが、岩波の場合は全く逆であった。その岩波を支える幹部は、かつて愛称で名前を呼びあい、スイもカライも共にしてきた人たちで、企業基盤の確固たる強味を発揮していた。

岩波は酒を一滴も飲まないが、酒席の付き合いは酒飲み以上に心得ていた。
戦前、へビースモーカーといわれるほど愛好したが、戦争中、統制になったとき、並んでまでタバコを吸うことはない、とピッタリとやめてしまった。それほど意志の強い人である。酒もタバコもやらない代わりに趣味は多岐にわたっていた。
ゴルフ、囲碁、将棋、麻雀、詩吟とも素人の域を出る。スポーツは万能で、特に野球、卓球は、戦前の全盛時代の主力メンバー、あるいはチームリーダーとして大いに活躍した。

さて、エンパイヤ自動車が部品専業として戦後再出発したとき、全身全霊を賭してメーカー対策に当ったのが岩波である。戦時中から培った部品製造ノウハウをもとに、戦後の混とんとした世相の中にあって、いち早く優良部品メーカーの開発、販売提携、ノウハウの提供など、主導的な立場に立ってメーカーとの太い絆を作りあげていった。おそらく岩波の努力がなければ今日はない、といっても言い過ぎではないだろう。
運命共同体の組織づくりとして、昭和48年、優良部品メーカーを結集したエンパイヤ協力会、翌49年、全国有力部品商によるエンパイヤ会をそれぞれ創設しているが、岩波の組織づくりの構想、はすでに昭和30年代の初頭から温められていた。
上島は日本も将来必ずモータリゼーション時代が到来することを予見していたが、岩波は4千万台、5千万台に発展する市場を先取りする組織づくりを考えたのである。そのころ岩波が社員によく言っていたことは「買ってくださるお客様は神様だというのと同じように、メーカーもお客様だよ」という言葉であった。

エンパイヤ協力会の合同部会の様子

メーカーとエンパイヤと地域の部品商が相寄って流通機構の確立を図る。さらにお互いに共存共栄の英知を出し合って、ユーザーを含めた整然とした流通体系を作りあげる。岩波の組織づくりの基本理念は、このようなものであった。

エンパイヤ協力会、エンパイヤ会の組織づくりは、会社の営業分野の全てではないが、代理権のあるメーカー商品を全国津々浦々まで、さらには海外に対しても即納体制を確立し、同時にメーカー、地域部品商との共存共栄の実をあげる組織づくりに努力したことは、その後の拡販にどれほど貢献しているか、多くを語る必要はない。そして、エンパイヤ自動車の扱い商品の色彩を今日の姿にした岩波の功績を忘れてはなるまい。

昭和32年11月上島が社長に就任すると同時に岩波は常務に就任した、その後、昭和40年11月専務、昭和46年6月 副社長、昭和48年11月上島と交代して代表取締役社長に就任した。
かつて戦前、戦中と通じて、一代目社長の柳田が公職で対外的な仕事が多くなり、社内は上島が取り仕切っていたように、上島と岩波の関係も、上島の公職団体の要職就任とともに、岩波は陰にいて上島を助けた。世に女房役という言葉があるが、上島と岩波の場合は車の両輪に例えることができた。


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