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第23話 三代目経営者 岩波角平

昭和30年の中、後半からモータリゼーションの発展期に入るが、その頃になると、実質的な経営は岩波体制に入り、本格的なデポ展開と、きめの細かい販売組織づくりは岩波の構想のもとに進められていった。大局的な方向を決定するのはもちろん上島ではあるが、上島・岩波の両輪がうまく回転したということも、一般の企業では見られない特異な土壤ができあがっていたからであろう。
昭和40年代は、石油ショックがあるまではいわゆる成長期で、市場の発展とともに我々も発展してきた。ただ漫然と規模の拡大を図ったがために陶汰された同業者もあったが、岩波は発展の中にも、その市場に見合った対応を、時の変化を読み通しておこなってきた。

昭和38年1月、業界ではまだ手を染めていなかったオート用品を専門に扱うセクションとして、第5販売部を設けたのも岩波の着想である。この部門は昭和40年2月、株式会社オート用品として独立させているが、10社にものぼる多くの直系、系列会社を今日の姿に育成、発展させたのも岩波の労が大きい。

エンパイヤ協力会の合同部会の様子

昭和51年4月に発足させた第2営業部は、ガソリンスタンド、カー用品を販売するという第5販売部の発想から、さらに大きく発展して、部品・用品を量販店、あるいはDIYといった新しい流通チャンネルに乗せることにあった。すでに詳しく述べてはいるが、この新しいチャンネル開発には、地域部品商からの抵抗もあった。岩波は、これからの地域部品商の一つの方向性として、エンパイヤ自らが実験して、そのノウハウを提供したい。また、それをするのが問屋の一つの使命であると、説いて回った。先んじて事を成すにはさまざまな障壁を乗り越えていかなければならない。あえてそれに挑戦できるのは勇気ある経営者といえる。


昭和52年の大型コンピュータ導入は、まさに業界にさきがけた、革命的な挑戦であった。これは岩波がいてはじめて出来たことで、しかも150余名の削減を実現して、なおかつ、売上・利益を大幅に伸ばしてる。

岩波はコンピュータを導入するに当って一番迷ったことは、会社にはコンピュータの知識のあるものは一人としていない。しかも、コンピュータ導入には相当優秀なプログラマーがいないとできない、という前提条件のようなものが一般的にあった。もちろん、昭和48年にビジレコードを導入しているので、ある程度の基礎はできているが、本格的な大型機を入れても大丈夫かという心配があった。

事務合理化の先兵になったコンピュータ<UNIVAC1106>

岩波はユニバックの担当責任者に条件を出した。それは、およそ次のような内容であった。
『コンピュータは、社員全員が打てるという前提で納入作業を進めてもらう。それができないならば導入しない。つまり、コンピュータを特定の人のものにせず、私のいうことを全部インプットしてくれるのであれば導入する』という、ユニバック側にとっては大変厳しい要求で、一時はたじろぐ場面もあった。
しかし、岩波は『人間がやれて機械ができないという事は無いはずである。コンピュータはもっと進んでいるのではないか』と執拗に迫った。

こうしてビジレコードに記帳している全ての業務をそのまま移行するという条件で導入を決定したが、ユニバックの担当者も当社の担当者も、正直なところかなりの間、昼夜を問わず苦しみながらも成功への道に辿りついたのである。これには限りなく膨れ上がる人件費を吸収し、なおかつ8万点にも及ぶ商品在庫の円滑な管理を完全におこなうのは機械化しかあり得ないと決断した岩波の執念と、与えられたより高い目標を成就させなければならないとする担当者の想念とが結合して、みごとに開花した賜物である。
何はともあれ、この大型コンピュータの導入は、岩波の決断と実行力がなければ実現しなかったことだけは確かである。


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