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第4話 新しい自動車時代の幕開け

大正12年の震災後、人の輸送はタクシー、ハイヤー、バス。貨物はトラックの時代を迎えた。
そして全国的な自動車の普及をもたらしたのは日本フォードの進出に続いて、昭和2年4月大阪で組み立てを開始した日本ゼネラルモータースのシボレーの出現であった。両車の経済性の強調とあいまって大量に生産される自動車はみるみるうちに日本中を席巻した。

これによって欧州車の後退を決定的にしたばかりか、軍用自動車補助法によって基礎を固めてきた国産自動車工業にも大きな打撃を与え、その頃の日本の自動車はフォードとシボレーに代表されるとまで言われた。しかし両車とも、乗用車の販売先はまだ90%タクシー業者だった。

昭和2年の頃 呉服橋のエンパイヤ自動車商会ビル。

フォード、シボレーを中心にして急激に自動車が普及した大きな原因は、月賦販売制度の採用であった。これまで自動車は手の届かないものであったが、この月賦販売制度によって運転免許証を手に入れさえすれば、すぐに車の持ち主になり自らハンドルを握りタクシー業を営むことができるようになった。これはフォード、シボレーにしても大量生産した車をさばく為には、全く月賦販売制度のお陰である。
しかし、急に実施した制度であった為いろいろな問題が出てきた。
車を買うタクシー業者のほとんどが弱小であり、月賦金の回収不能、月賦未払車の転売など頻繁に発生し、窮地に追い込まれた自動車販売業者の中には高利融資にたより倒産する者も出てきた。昭和4年には全国販売店の1割に当たる20数店が一時閉店をよぎなくされた。
この解決策としては、販売業者が互いに自粛して不良業者には車を売らないようにする事しかなかった。それに月賦販売制度は法制的に認められていなかったことも問題が生ずる一因であった。しかしこうした販売上の問題もその後の景気の回復と車両制限等により解決していった。

フォード、シボレーの両車が日本市場を制覇することになったもう一つの要因は「全国に張りめぐされた販売網と水も漏らさぬサービス網」を完全に整備したことであった。大正14年エンパイヤ自動車商会が芝浦工場にサービスステーションと大きく看板を掲げたのも、その後の発展に大きな意味を持ち、おそらく“サービス”の言葉を一般に知らせた元祖であろう(“サービス”という言葉の語源はラテン語の“セルブス”であって、それは尽くすとかお祈りするという意味を持っている)
つまり自動車を修理するのではなく、サービスをするという趣旨から生まれたのが芝浦サービスステーションである。
自動車販売にとって欠くことのできないサービスは、補修部品の充足であった。
フォード、シボレーの部品は当初はすべてアメリカの本国から持ってきていたが、我が国における自動車普及に対応して国内の部品工業がめざましい発展を遂げてきた。そこで両社はコスト低減という考えもあり、試験に合格した部品は積極的に採用するようになった。
従ってこれらの国産部品は急速な自動車の普及に役立った点で軽視できないものがある。国産部品の採用がきっかけとなって、両社の組立部品にも国産品が加えられ、その後の我が国における自動車工業の発展を大きく支えることになった。

ここで我が国における自動車の新しい時代を開いていったフォード、シボレー両車の改良過程をご説明します。

昭和2年(1927)最初のA型フォード 4ドア・セダン。19年間もの間、T型フォードの生産は続けられ、15,007,033台が販売されたが、その後、1927年11月、あらゆる点で進歩したA型が登場。そして1927年終わりから1931年までに450万台以上が生産され、アメリカのハイウエイに溢れた。

T型フォードはヘンリー・フォードが世界で初めて量産して経済車で、自動車の革命といわれるほどの高性能車だった。そのT型を廃止して、昭和2年12月A型を発表した。T型からA型に移行する1年間、操業停止という大きな犠牲をはらっているが、A型発表後のフォードは昭和4年7月には米国本社では百万台の生産台数に達している。
これに対してゼネラルモータースは昭和3年11月、4気筒を廃止して6気筒を発表した。大衆車に6気筒を搭載したのは、このシボレーが初めてである。
フォードは昭和7年、V型8気筒エンジンを搭載しその強馬力を誇った。
さらに昭和9年にはシボレーがニーアクションを採用した。

両社の性能競争は、そのまま国内のディーラーに影響し、販売競争がますます激しくなっていった。


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