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第6話 トップディーラー

昭和8年の東京における自動車営業者は7337名いて、自動車の所有台数は11580台だった。
警視庁は春の交通安全デーを機に、全車両に対し調査をおこなった。この調査に応じた5858台の車両のうち、フォードが43.5%で2547台、次いでシボレー36.3%の2126台、ダッチブラザーが3位で6.1%、その他は様々であった。この3車種が大衆車といわれたが、やはりフォード、シボレーに代表された。

このころ東京地域のフォードディーラーは、エンパイヤ、松永、中央、日本、太東、イサム、内田の7社があって、タクシー業者を中心に販売競争を続けていた。その中でも一番多く売っていたのがエンパイヤ自動車だった。

(左)昭和8年、日本橋白木屋でY型フォードの展示発表会 / (右)昭和9年、エンパイヤ自動車ショールーム

昭和7年から12年の5年間はまさにフォード、シボレーの全盛期時代であり、燗熟期でもあった。

この当時、菊地寛が書いた、自動車販売会社のセールスマンの葛藤を描いた映画の舞台として、エンパイヤ自動車の呉服橋の店舗が登場してくる。

(左)エンパイヤ自動車店頭 / (右)ショーウィンドウ

この映画の中に同じ会社のセールスマン同士が客を奪い合うという筋があるが、これは現実にあった。
苦労して売って1台で50円しか利益がないという状態でセールスマン達は激しい値引き競争をしていたのである。

エンパイヤ自動車が記録した年間1100台の販売は、乗用車とトラックが半々であった。乗用車はタクシー用、個人は商店主、社長、それに宮家やお屋敷といわれる階層で、トラックは運送会社、個人商店、会社用である。

トラックにバスボディーを乗せたバスの販売も盛んだった。今の東急の前進で東横乗合自動車、東武鉄道バスをはじめ、中小のバス会社がたくさんあった。


ところで、自動車の“オーナー”と“オーナードライバー”という言葉があるが、この当時、オーナーであってもオーナードライバーの人は少なかった。たいていはおかかえ運転手を持ち、その車のドアの外には必ず家紋をつけ権力の象徴とした。皇室によってそれぞれ決められた植物の紋章がある、その紋章をつけるのがならわしとなっていた。だから高級乗用車販売には紋屋というものがつきものだった。

エンパイヤ自動車のサービスステーション(修理工場)の隣には信濃ボディーというボディー工場があり、エンパイヤ自動車が受注するバスやトラックのディー専門工場として協力してもらった。
昭和11年、日本で初めてエンパイヤ自動車が54人乗りのバスを製作し、新聞にも報道された。これは日本橋の小学校の児童を千葉県の農園に運ぶための車だったが、この頃のバスは20人乗りが普通であった。

エンパイヤ自動車が日本一のフォードディーラーといわれたこの頃、忘れられないエピソードがある。

1927年改良型フォードT型 東京を走った最初の東京市営バス

まだ、飛行機がない時代で、豪華客船が横浜の埠頭について、一人のアメリカ人がタクシーに乗り、エンパイヤ自動車の前に止まった。しかし、車の中で何やらいい合っている。聞いてみると、タクシーの運転手はエンパイヤと聞いたので、ここへ来た、という。アメリカ人はエンパイヤは帝国ホテルのつもりで言ったという事であった。

東京周辺地域のタクシー会社までフォード車が販売されていたので、タクシーの運転手ならば、エンパイヤといえばエンパイヤ自動車のこととされていた。
この頃はそれほど名が知られていたのであった。

左から、昭和4年当時のフォード部品カタログ
昭和6年日本フォード(株)横浜子安で制作された取扱説明書
昭和8年制作のV8フォード取扱説明書
1931年に制作したフォード社の会社案内


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