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第7話 部品工業の発展

昭和6年9月の満州事変に続いて、昭和7年1月には上海事変が勃発した。アメリカのスティムソン国務長官は、日本の満州侵略に対し、昭和7年1月不承認の声明を発したことにより、国際状勢が険悪になり、アメリカからの自動車、補修部品の対日輸出を抑制しはじめたのである。

フォードの輸入部品に依存しているエンパイヤにとって、先ゆき不安定な要因になることは必至と見て、いち早く部品国産化を手がけた。もちろんフォードディーラーの立場にあるため表立ってフォードの部品以外は、扱うことも作ることも認められなかった。
このため、昼間の仕事を終えると、夜、倉庫の片隅でT型フォードの国産化部品を試作し、その試作品をもとに下請工場を指導しながら、消耗度の激しい部品を次々と開発していった。
日本フォードには“ロードマン制度”といわれる制度があり、車の販売、サービス、部品のそれぞれにロードマン(巡回員)を配置して、ディーラーがフォード部品以外の品物を扱っていないかどうか、チェックする権限を持っていた。フォードディーラー政策はそれほど厳しいものであった。

 
昭和6年に始まった満州事変は1年足らずの短期決戦で、わが国を有利に導いた。
その要因として日本陸軍自動車部隊の活躍があげられている。使用車両はフォードトラックであった。
陸軍はこの大陸進攻作戦の経験から、軍用自動車確保のため日本の自動車工業の緊急な確立を商工省に迫った。これが端緒になって昭和11年、自動車製造事業法が施行され、トラックを主軸として日本の自動車工業及び部品工業がようやく発展の道を辿ることになる。
そしてエンパイヤ自動車も陸軍軍納品を扱うようになり、それ以来、用品部は戦時色の深まりとともに軍用部品の納入が中心となっていった。

1935年型リンカーン・ビクトリア

昭和11年の自動車製造事業法は以下の通りであった。

1,自動車製造業を許可制とし、許可会社には向こう5カ年間の営業税を免除するほか資金調達にも特別の優遇を与え、機械・用品の輸入税を免除する。
2,外国車のダンピングあるいは許可会社の生産原価が割高となった場合は市価の調達、輸入車の関税引き上げ、輸入制限等なし得ること。
3,生産力確保のため外国2社に対して過去の実績以上の増産を許さない。


の3点を骨子としたものであった。
そして、この法律に基づいて自動車関税の全面的な引き上げが実施され、輸入車両は1率70%の関税が課せられ、部品については国産自動車製造に必須のものと、そうでないものに分け、後者については大幅な引き上げを実施し、事実上米国自動車資本の締め出しを図ろうとするものであった。

この法律が執行された年、千台余りに過ぎなかった国産車の生産は、昭和16年に4万2千台まで増え、一応この法律は成功した。
しかし、この法律で「補修用優良部品の育成」という大きな問題が見逃されていたことから、その後の戦局の拡大とともに、補修用部品の不足は深刻になっていった。

補修用優良部品に対する育成の遅滞から、たちまち困ったのは陸軍で、大都市地域での民間トラックの微発が終わりに近づいたころ、我々業界に対して軍用車両の部品補給体制を整えるように命令してきた。

エンパイヤ自動車はフォード車の部品を担当した。自動車部品製造会社、共同国産自動車会社関係の部品メーカーをはじめ、各地の工場に協力を呼びかけた。重要部品についてはフォードから青図面を入手し、純正部品をスケッチして、それを基にあれこれ工場で相談しながら作ってもらった。
様々な問題もあったが、絶大なる協力、それぞれの使命感からエンパイヤ自動車が部品を作るノウハウを本当に身につけたのはこの頃であり、また我が国の部品工業界の気運の源でもあった。

当時の国産部品の開発は、外車部品の現品を機械工場などに持ち込み、それを作るための材料や前渡金まで卸商が出して作らせた。それを自分のところで買い上げて売るという方法であった。
従って当時の卸商は、商品の在庫・出荷の調整機能だけでなく商品の開発段階まで企画し、部品業者の育成、指導をしてきたのである。

昭和12年当時、大阪毎日新聞、東京日日新聞が共催したモーターショーのカタログ


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